「たかが」から「まさか」へ

あれこれと眠れぬ夜。たまたまつけたケーブルTVで放映されていた「復活の日」。悪趣味な、と苦笑しつつまんまと最後まで観てしまう。

原作は小松左京のパニックSF小説。196x年、ヨーロッパの軍事秘密施設から持ち出された新種のウイルスMM−88。偶然の航空機事故で一旦はアルプス山中の氷雪に封じ込められたが、春の雪解けとともに急速に拡散。最初はインフルエンザ「チベットかぜ」と見られていた疫病は、やがて異常な感染力と死亡率で世界中に猛威をふるい始める…。

調べてみたら初版は1964年の8月(偶然に私の誕生月でもある)。新幹線が開通し東京オリンピック直前、「もはや戦後ではない」経済成長に湧き立つ中でこの小説が書かれた、ことに驚く。

「チベットかぜ」は日本に上陸。今流に言えば人々の「正常性バイアス」を容易に粉砕しながら、事態は取り返しのつかない方向へと進んでいく。

灰色の不安は徐々に人々の心の底に、ひろがりつつあるとはいえ、まだ事態を軽く見ようとする傾向は人々の中に強く残っていた。

インフルエンザ?——ワクチンがあるじゃないか。XXって風邪薬はきくぜ、漢方薬がいいよ(……)入院?大げさね、あんた。たかがカゼじゃないの!

たかがインフルエンザじゃないか!……そのたかがが、どこか心の奥底の方で、まさかにかわりつつあった。(……)

まさか、インフルエンザなんかで!

あらゆる努力を嘲笑うかのように「チベットかぜ」は人類を圧倒する。そして——

人類が……たかがウイルスに、わずか数か月の間に滅ぼされた。こんなことはあり得ない!——そうです。そのあり得べからざることが起こったのです。われわれは、この災厄に正面から立ち向かうことをしなかった——

もちろん、小説としてのクライマックスは第二部、南極にわずかに生き残った人々の苦闘の物語、「復活の日」にあるが、次々に明らかになる感染爆発のニュースを前にして今読み返すのはやはり第一部、「災厄の年」である。私たちは、やはり「この災厄に正面から立ち向かうことをしなかった」のか? 56年前の宿題を目の前に、なお眠れぬ夜が続く。

対岸に立つ

当社拠点における新型コロナウイルス感染者の発生について

いつか見るものとは思っていたが、まさか今日とは思わなかった…とまた虚をつかれる。自分が封城の内側にある状況を、マスクと体温計を命綱とする日々をどれだけ思い浮かべたところで、所詮は思考ゲーム。ドローンのオペレーターが戦場を見るスクリーンより、どれほどのリアルを私は得ていたか。

エッシャーの世界。此岸は彼岸に、「あちら」が「こちら」に。武漢の昨日が東京の今日となるゲシュタルト崩壊、その目眩に耐えることもできずして、かの地の友人たちにどの顔を会わせられるものか。

連帯に百に一つの可能性があるならば、今こそその真価が問われる。覚悟を決めて明日を歩き出さねばならぬ。

静かな爆発(#加油武汉)

新型コロナウィルス肺炎は封じ込めどころか、収束の気配さえ見せない。患者の1日あたりの増加数自体が直線的に伸びてきている。

中心となっている武漢市は人口1100万に対し確定診断の累計が5000人超、つまり人口の0.05%。だが、このペースで進行すれば、数日でさらに比率が急増することは間違いない。

何よりも中国国内の流行を遅らせるとともに、病原体の特定と治療法確立を進める。その支援が国際社会にとって最善の策であるはずなのだが。

大規模災害には直ちに支援体制を立ち上げる赤十字や国境なき医師団、あるいはセレブたちのチャリティも一向に動きが見えないのは何故だろう。日本からも、友好都市関係にある自治体からは支援物資の提供が始まっているとは聞くが、民間レベルの支援や募金はなぜ見当たらないのか…。

知人友人たちに連絡をとる。カタコトの中国語を繰り返すたびに何を書けばよいのか、ことばが次第にすり減ってゆく。励ましも想いやりも、その無力さだけが空回りして。

聞こえてくるのは脱出と鎖国の掛け声、そして忍び寄る排斥の足音。

中国で封じ込めがかなわず感染が爆発すれば、私の住むこの街もほぼ時差なく感染圏内となることは容易に想像がつく。今あるその覚悟がわずかなりと、彼彼女らの支えになるならば。いやむしろその連帯が叶うなら、支えられるのは私であって。

フール・プルーフ

歴史の教訓を経て、現代の政治システムには権力の暴走を抑止するための様々な安全装置、フェイル・セーフが組み込まれている。だが、先人たちが予見したのはせいぜいシステムの暴走であって、「募っているが募集ではない」だの「わかりました、は承諾ではない」と、システムそのものを破壊し溶解する営為までは想定の外であっただろう。

言語破壊による政治システムの乗っ取りは、社会システムそのものをも侵食し崩壊させてゆく。時代状況にワイマール共和国を重ねて視る人々の危機感は、もはや時期を逸したものだろうか。

フェイル・セーフを超えて。システムの破壊、メルトダウンを許さぬフール・プルーフは政治システムに組み込まれるべきか。仮に可能であっても、「安全」なシステムが必ずしも豊かでも、幸せでもあり得ないこともまた事実なのだが。

閉鎖都市

春節を前にして流行を続ける新型肺炎。武漢に続き、近隣の黄岡でも鉄道駅の閉鎖、自動車やバスの検問、人が集まる場所の閉鎖などが実施されたという。

SFやサスペンスの世界ではなく。武漢の人口は11百万、黄岡は7.5百万。隣国、飛行機で四時間半のところにある、東京都(13.5百万)に匹敵する都市2つがいま厳戒下、閉鎖されている現実にただ怖れと悲しみが押し寄せる。親しい人々のre-unionに心浮き立つべき春節に、未だ確実な治療も見出せず、ただ脱出と往来を禁じられた人々の思いはいかなるものか。友人知人を圏内に残した人々は。

早期の収束、治療法の確立、患者の回復をいまは心から願うのみ。

(追記)三年の不在

春節、とある居酒屋にて。

ー「映画とか小説で見る春節って、父親が出てこないように思うのだけど、なぜかしら?」

「そうですね、春節といえば母親と子供、そして料理というイメージがありますね。何故か、はあまり考えたことがないですが」


「あ、日本では「お年玉」は誰が配りますか?」

ー「多くの場合、父親かなぁ」

「春節でも「紅包」という祝儀の習慣がありますが、配るのは主に母親です。その印象も大きいんじゃないですかね」

なるほど。

三年の不在

Appleは近年春節が近づくと、春節をテーマにした中国語の短い動画を公開している。

2018年 Three Minutes

https://www.apple.com/sg/three-minutes/

2019年 Chinese New Year – The Bucket – Apple

2020年 Shot on iPhone 11 Pro — Chinese New Year — Daughter

Qingyuan Wendai on Twitter

一流のスタッフ、俳優を惜しみなくつぎ込んだ「あなたのiPhoneでこんなムービーが」。(私iPhoneでこんなムービーを作れない、ことは言うまでもない)

三本とも、春節の家族のre-unionを題材に中国語を解さずとも泣かせる作品。長距離列車乗務員の女性とその幼い息子、都会に暮らす若い独身男性と故郷の老母、シングルマザーのタクシー運転手と幼い娘・疎遠に暮らすその祖母。30億人が移動する、中国で最も共有される体験を数分間に巧みに切り取り、スケッチしてみせる。

見終わってふと気づく。父親の不在。三本ともに父親の存在は暗示さえされず、「母と娘」「母と息子」を軸に再会と別離の物語が綴られる。単に中国の人々にとって故郷、郷愁とは第一に母性に紐づくものなのか、あるいは…。春節明け、かの地の知己たちに訊ねることを楽しみにしつつ。