都市の生命——敗戦記念日に

現在、台東清掃事務所職員において、新型コロナウイルス感染症陽性者が複数確認されています。

ごみの収集体制を維持するために、清掃事務所では職員の配置を工夫し、通常どおりの収集業務ができるよう努めてきましたが、業務に必要な職員の確保が困難となったため、下記の期間において「燃やさないごみ(不燃ごみ)」の収集を休止いたします。

【ご注意】燃やさないごみ(不燃ごみ)の収集休止について(台東区役所ホームページ、2021/8/14更新)

都市を生物のメタファーで(あるいは生物そのものとして)捉える都市論の観点は特に新しいものではないが、その「生命活動」をもたらしているのは人々のフィジカルな活動、つまりエッセンシャル・ワークだということはしばしば忘れられてしまう。見えにくいし、ある立場からは見ないことが都合が良いから。

都市システム、特に東京圏に代表される大都市のそれは簡単に、脆くも停止する。一箇所、一機能の小さな目詰まりが連鎖的な混乱を招くことは、もはや日常茶飯事となっている。

人々に支えられた都市システムは強靭でもある。76年前の敗戦、或いは2011年の東日本大震災。破壊的な停止を経てなお、例えば東京が永らえているのは、都市活動の本質がビルでも高速道路でもなく、人々のフィジカルな営為、実存の連鎖であったからに他ならない。


だが、COVID-19 はその「人々」を攻撃する。一人ひとりを弱らせ、人と人のつながりを断ち切る。

人々の支え、エッセンシャル・ワークを失った都市。都市システムの脆さがむき出しに現出し蹂躙する。


報告される新規陽性確定者数3万人/週、療養者数4万人。3百人に一人が療養中、4百人に一人が毎週新規に感染。

医療は勿論すでに、そしてさまざまなエッセンシャル・ワークの機能停止が今も静かに、取り返しもつかずに進んでいる。

一石二鳥のその先に

7/30 「宣言の対象地域は拡大されますが、政府の対策は“手詰まり感”に満ちています」(TBS

8/2 「感染が拡大している地域では、中等症でも症状によっては、自宅療養とすることを決めました」 (ANN

8/2 「基本的に入院は中等症以上という仕分けになっている。宿泊療養、ホテル、自宅での療養がより安全になるために指示もしている」 (東京新聞

8/3 「高齢者や基礎疾患がある人が自宅療養となる可能性がある」 (東京新聞

オリンピックの中、突然の「新型コロナ感染者について、重症者以外は入院ではなく、原則自宅「療養」」という菅氏のアナウンス。政府方針の転換、先行きの不透明さへの不安は大きく、それなりに反響を呼んでいる。

そう来るか。脅しに来たのね、と。

オリンピックによる高揚感も限定的、おそらくは支持率も上昇せず、他方で緊急事態宣言による行動変容効果も出ない。八方塞がりの中で、

  • 医療リソースの逼迫状況を追認
  • 将来のケア打ち切りをアナウンス

つまり公助責任を否認・精算するとともに、私たちの危機感を煽り、自助的な行動変容を引き起こす。言うなれば一石二鳥。

そう考えれば、普段にも増して荒っぽく、人の神経を逆撫でする彼彼女らのステートメントの理由も腑に落ちる。説明し納得させたいのではなく、「このままでは殺される」、と感じて自衛に走る人が増えれば増えるほど効果的なのだ。

もちろん、私たちの行動変容の結果として流行レベルが下がれば、「政府のリーダーシップにより状況が改善した」と臆面もなく嘯いてまわる、ところまでがもれなくセットになっている。

だが仮に思惑通りに流行が収束せず、さらに悲惨な状況となればどうなるか。その時即ちカタストロフィーの中、ショック・ドクトリンが横行することは悪夢ではなく、もはや理性的な予知の範疇にある。

你最近怎么样?——友人たちへ

ご無沙汰しています。お変わりないですか?

先日東京ではオリンピックを開会し、ちょうど日程の半分まで来たところです。開催国の有利は以前から言われていることですが、今回はさらに入国前後の行動制約や練習不足などのためか、この傾向が極端になっているようです。ホームもビジターも関係なく全力を尽くせる環境を確保するのがホスト国の責任。責任を果たせなかったことを恥じねばならぬ、と思うわけです。

新型コロナ、東京は今週爆発的に陽性確定者数が増えています。1日に2000人、3000人。先週まで1000人台だったのが、とうとう4000人を超えてしまい、来週はさらに増えるのでは、と言われています。

そちらもこの春からは抑え込みに成功していたと伺いますが、新規に確定が出て地域や施設の閉鎖が行われた、と聞きました。それでも東京の感染者数とは桁違いに少ないとのことですが、即時に整然と、徹底的に対応できることは率直にすごいなあ、と感じます。

δ株は感染力が強いだけでなく、ワクチンの防御効果もかなりくぐり抜けてしまう、と報じられています。日本はさらにワクチンの接種もまだこれからで(私もやっと一回目を終えたところです)、非常に厳しい状況です。東京は特に、流行の結果、医療や社会サービスが僅かでも不足すると、社会生活全体が危うくなりかねません。

一昨年、そちらでお目にかかった時にはまさかこのようなことになるとは夢にも思っていませんでした。昨年から、同じことをずっと繰り返し言い合っている気がしますが、それでも、何度でも——収束したら、必ずお目にかかりましょう。ご一緒に今日の苦難を悼み、将来を語り合えますように。

どうぞお元気で。好好休息,多保重! 再见!

東の風が吹くとき

連休最終日、14時半。新宿御苑から千駄ヶ谷、国立競技場横を通って表参道へ歩く(この連休、毎日毎日一体何を…)。

開会式も終わり、周りにいるのは私同様「競技場でも見るか」のやじ馬がぱらぱらと、大した人出はなし。まあ無観客。自業自得とはいえ、暑い。この数日湿度はそれほどではなく、住民にはまだしのぎやすい猛暑ではあるけど、長旅疲れの選手にはまあ酷なことを。「理想的な気候」とか吹いた奴、出てこい。台風が来るらしいが、湿った空気が吹き込んで来たら本当に知らんぞ……。

新宿御苑千駄ヶ谷口と、千駄ヶ谷駅にて。涼しい新宿御苑内で競技ができたらまだ選手たちにはマシ(それで伐採とかは勘弁だが)。トレランとかかしら。

かくして「4日間の不思議」(ちと短い)が明ける。火曜日には「東の風が吹きはじめたね、ワトスン」となるか。

キャンバスor彫塑

4連休中日、「開会式」翌日。亡父の繋がりでお世話になっている平井様の講演会のため、赤坂へ。

運動不足解消とて、日比谷公園から霞ヶ関、内閣府下を通って溜池山王・虎ノ門まで歩く。自業自得とは言え、暑い。

日比谷公園

猛暑の中、経産省横で「原発再稼働反対」の幟を立て座り込んでおられる方々に出会う。咄嗟のこと、「お暑いところご苦労様です」と声をかけることしか出来ず。体調など崩されませぬよう祈るのみ。

霞ヶ関、国会議事堂、首相官邸とも車止めはあるものの警備は緩やか、普段とそれほど変わりない。目を剥いたのは溜池山王・虎ノ門。国賓待遇と報じられる会長殿の宿泊先、ホテルオークラを中心に機動隊の警備車両が列を作る。エンジンかけ放し、待機中の警官用に冷房をかけているのか。要所要所にはバリケード、立哨する警察官たち。

講演会のテーマは、平井様ご専門の刺青論。間にコレオグラファーの方のパフォーマンスを挟むなど、稠密なセッション。限られた会場キャパとて、参加者の数は多くはないものの充実した時間。

お話を伺いつつ、とりとめなく思うなど。


刺青を「彫る」と言いつつ、身体との関係性はしばしばキャンバスと描画、あるいは意匠を「まとう」ものとして捉えられてきている。だが、身体を「彫る」ことはまさしく彫塑であって、その境界面に「載せる」ことではない、のでは。

タトゥシールのように、他者の目からすれば「載せる」ことと「彫る」ことは明別されるものではない。だが、当事者にとっては「彫る」こと、己の身体を掘り取り異=闇である「墨」をそこへ取りこむことは、(不可逆的にせよ)表層、境界面に「載せる」「まとう」ことのみとは決定的に違う(排他ではないにせよ)のではないか。

竜を、ろくろ首を、あるいは英雄を。刺青は入れるものだが、意匠は描かれるものではなく、Aが差し出した身体を刺し切り刻み、抉りつけることで新たに作り上げられていく。刺青前のAが意匠をまとうのではなく、意匠を止揚したAダッシュとしてその後を生きていく、のではないか。三島の肉体改造願望、あるいは古来様々に語られる変身論とも繋がるか。

刺青後日談としてしばしば語られる悲喜劇。ウワバミを彫ったは良いが、太った/皺が寄った/etcにより、似てもにつかぬものとなってしまったという。笑話の一面として、一度入れられた意匠そのものもAダッシュとして存在する、生きていく運命から逃れられぬ、ことを示している…。


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